tohryufd’s diary

消防クリエイターとしての奮闘記

藤龍消防便り第12号

藤龍消防便り🚒第12号🚑2021年4月14日👨‍🚒

皆さん、ご存じのように我が国は「地震大国」です。5年前の今日は「熊本地震」が発生した日。今号はこの「熊本地震」について語ります☝️
<熊本地震とは>
2016年4月14日21時26分以降に熊本県大分県で相次いで発生した地震気象庁震度階級では最も大きい震度7を観測する地震が4月14日夜および4月16日未明に発生したほか、最大震度が6強の地震が2回、6弱の地震が3回発生している。
場所: 熊本県 益城町
被害地域: 熊本県大分県長崎県を中心とする九州地方
震源の深さ: 12 km
死傷者数: 死者273人負傷者2809人(一部引用)
熊本地震の大きな特徴の一つに「震度7地震が2回きた」というのがあります。
<熊本城>
文化遺産であり熊本のシンボルの「熊本城」が甚大な被害を受けてしまいました🏯😢復興まで長い年月や莫大な費用を費やします。完全復活まではあと「18年」かかるとも言われています😔その頃、私は60代後半。消防クリエイターとして現役バリバリで「日本中」「世界中」を飛び回ってる事でしょうね☺️ぜひ、完全復活した熊本城を自分の目で見に行こうと思っています☺️コロナ禍真っ最中の今この時も復興が進められています。日本人はこれまで幾度の災害に対しても目を背けず復興に取り組んで来ました。技術力も著しく進歩しています。予定より早い完全復活も「夢ではない」と私は思います。

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<緊急消防援助隊>
この「熊本地震」でも緊急消防援助隊として「東京消防庁ハイパーレスキュー」をはじめ、全国から多くの消防職員たちが駆け付けました🚒🚑🚒🚑🚒🚑🚒🚑🚒🚑阪神淡路大震災で被災した関西地区や、同じく東日本大震災で被災した東北地区からも数多くの消防職員が駆け付け支援活動を行いました。「自分たちも助けてもらったから今度は自分たちが助ける」と言った恩返し精神や「困っている時はお互い様」と言った助け合い精神。これぞまさしく「消防の姿」なのです。

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<おわりに>
私の知人にも熊本出身の方がいらして、発生直後に少しお話を伺いました。その方は「実家は大丈夫でしたが、被災した親戚もいます」とおっしゃっていました。遠く離れた故郷が災害に見舞われるとご家族や友人の方々の安否で不安になり、生まれ育った場所の変わり果てた姿に動揺をし、かといってすぐには駆け付けられないもどかしさ、いろんな感情が駆け巡ります。被災は発生現場だけの事でなく遠くに移住して生活している方々にも及んでいる事を忘れてはいけません。さて、今回もご愛読頂き誠にありがとうございました。「いいね👍」や「コメント」は励みになります。。それではまた「次号」で。バイバイ👋

藤龍市消防本部初代消防長
消防司令長
消防クリエイター
伊藤龍一

藤龍消防便り緊急号外

藤龍消防便り🚒🚨緊急号外🚨🚑2021年4月3日👨‍🚒


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⚠️最近、全国的に火災が多発しております⚠️私の住んでいる岐阜市でも多く発生(1日2件の時も度々)しております。そこで🚨緊急号外🚨を配信します。火災のしくみや予防法、火災発生時の対処法を簡単に語ります。
<火災のしくみ>
火災が起こる要素は、①可燃物がある事。②周囲に空気(酸素)がある事。③熱源がある事。この3つで火災が起きます。この3つの要素が1つでも欠ければ火災は起きません。
<予防法>
この3つの要素を踏まえて、①火気のそばに可燃物(燃えやすい物)を置かない。②火を扱ってる場合は火元から離れない(どうしても離れなければならない場合は周囲に一言伝える。誰も居ない場合は火を消す)。④子供に火の扱いをさせない。任せない。ライターやマッチなどは子供のてに届かない場所でしっかり管理する。⑤放火されないように可燃物を人目に付かない場所には置かない。などなどです。
<火災発生時の対処法>
それでも火災が起きた場合は、①速やかに119番に通報する(言葉や耳の不自由な方でもファックスやメールで通報できます。出来る限り通報を試みてください)。②周囲に火災発生を知らせる。③初期消火を試みる(危険な場合は速やかに避難を。基準は炎が天井付近に達してる場合は直ちに消火を諦めてください)。確実なのは「消火器」を使用する事。⚠️注意⚠️水での消火も効果的ですが、油火災はかえって火が広がり大変危険なため絶対にやめてください☝️

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初期消火に成功しても、消防には必ず通報をし、消防隊に本当に消えてるかを確認してもらってください☝️
<おわりに>
このように緊急性があると判断した場合には号外配信も致します。火災は防げる災害です。皆さんが1人1人の防火意識が向上すれば発生率が減少します。皆さん、改めて「火の用心」をお願いします。バイバイ👋

藤龍市消防本部初代消防長
消防司令長
消防クリエイター
伊藤龍一

藤龍消防便り第11号

藤龍消防便り🚒第11号🚑2021年3月20日👨‍🚒

26年前の今日、阪神淡路大震災の衝撃が冷め止まぬ日本列島をまたもや震撼させた。世界初のバイオテロが首都東京で発生。「地下鉄サリン事件」です。今号は「地下鉄サリン事件」について語ります。
<地下鉄サリン事件とは>
1995年3月20日に東京都で発生した同時多発テロ事件である。警察庁による正式名称は、地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件。日本国外では「英: Tokyo Sarin Attack」と呼ばれることがある。世界でも稀に見る大都市圏における化学兵器を利用した無差別テロ事件であった。死亡者: 14人
負傷者: 約6,300人
動機: 教団への捜査の撹乱と首都圏の混乱
場所: 東京都
攻撃手段: 地下鉄の列車にサリンを撒くことによる化学テロ・宗教テロ(各引用)
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麻原彰晃(あさはらしょうこう)。本名松本智津夫元死刑囚率いるカルト教団オウム真理教」の犯行。何の罪ない人々を無差別に狙った卑劣なテロ行為に日本のみならず世界中が凍りつきました。
<サリンとは>
1938年にドイツで開発された有機リン系化合物。 極めて重篤な作用を持つ神経毒である。 化学物質としての正式名称は「イソプロピルメタンフルオロホスホネート」。 サリンという名称は開発者4名の名に由来している。 常温では無色無臭の液体ですが、気化したサリンは口や鼻、目、耳、皮膚などから吸収され、呼吸筋や心機能をマヒさせます。 吸うだけでなく、皮膚に触れるだけでも死に至る可能性があるのです。 (各引用)
<後遺症>
この事件の被害者は26年経った現在も様々な後遺症に苦しんでいます。指導者の麻原彰晃以下13名に死刑判決が下され、平成30年に全員の死刑が執行された。化学兵器を使った無差別テロに対して当時の「消防」はなすすべがありませんでした😔
<スーパーアンビュランス>
特殊救急車(スーパーアンビュランス)は、大規模災害で多数の傷病者が発生した場合に災害現場で応急救護所として活用する車両です。 左右に2mずつ拡張し40㎡の床面積を確保し、8床のベットを設定します。(引用)
このスーパーアンビュランスの初の出動がこの「地下鉄サリン事件」だったと思います。もし違ってたならコメントで教えて下さい☺️もちろん実物のスーパーアンビュランスはまだ見た事はありませんが、私の第一印象は「こんなにデカイ救急車必要なの🤔」でした。スーパーアンビュランスのファンの方には申し訳ないのですがただでさえ道端(路地)が狭い日本には大型救急車より、装備を最低限にした軽ワゴンタイプの救急車をもっと普及させるほうがいいと考えています。これは私個人の考えなのでご理解頂ければ幸いです🙏☺️

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<NBC特殊災害対応部隊>
地下鉄サリン事件」を機に「消防」もバイオテロ等に対応する装備とそれを扱う人材を迫られます。それが「NBC特殊災害対応部隊」です☝️
NBC災害対応 当部隊は、特殊災害対策車を中心とした10台の車両とロボット、総括部隊長以下47名で構成され、各種防護衣並びに測定資器材を装備して、様々なNBC災害に対応しています。(引用)
<NBC災害とは>
NBC災害とは核(nuclear)、生物(biological)、化学物質(chemical)による特殊災害のことを言います。(引用)
分かりやすくカタカナにします☺️
N(ニュークリア)核
B(バイオロジカル)生物
C(ケミカル)化学物質

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<おわりに>
今までになかった新しい形の「災害」が発生する度に消防力も進歩し続けています。ただ1つ残念な事は「進歩」 の裏には多くの被害や犠牲の上で成り立ってる事。なるべくなら被害や犠牲を生む前に先手先手で対策をして行けるといいのですが・・・。今後も新たな災害が発生するかと思います。これからも「消防」は人命を救うために進化し続けます。私も「消防クリエイター」として様々なアイデアを提供して行きます☺️今号もご愛読頂き誠にありがとうございます☺️皆さんの「いいね👍」やコメントが励みになります。。それではまた「次号」で。バイバイ👋

藤龍市消防本部初代消防長
消防司令長
消防クリエイター
伊藤龍一

藤龍消防便り第10号

藤龍消防便り「第10号」2021年3月11日

東日本大震災から10年。自然災害の恐ろしさを痛感された方々も多いはず・・・。そして人間の無力さを嫌というほど見せつけられたこの大災害。今号で改めて「東日本大震災」について語ります。
<東日本大震災とは>
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害である。大規模な地震災害であることから大震災と呼称される。日本の三陸沖(牡鹿半島の東南東約130km付近)の深さ約24kmを震源地として発生した。 地震の規模は日本観測史上最大のマグニチュード9.0。 東日本各地での大きな揺れや、大津波、火災等により、東北地方を中心に12都道県で2万2000人余の死者(震災関連死を含む)・行方不明者が発生した。 これは明治以降の日本の地震被害としては関東大震災、明治三陸地震に次ぐ規模となった。(各所引用)
この震災の特徴は「津波」による被害。 最大40メートルほどの高さまで斜面を駆け上がり、各地に壊滅的な被害をもたらしました。 その高さは、国内の観測史上最大級のものでした。(引用)まさに「想定外」の被害だった事は言うまでもありません。
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<豆知識>
津波」は「TSUNAMI」で万国共通語なのです。
<この頃の私は>
以前の阪神淡路大震災の時とはうってかわり、上司や同僚たちの信頼を勝ち取り、一時は溶接(プログラムされたロボットを使う)チームのサブリーダーとしてパートの方々に指示をしたり、ちょっとした不具合ぐらいなら治せるまでに成長。また、障がい者従業員のリーダーとして健常者と障がい者のパイプ役もしてました。私専用の機械を使い、一つの仕事まで任され、精力的に働いてました。この震災の影響は私の勤めていた会社にも大きなダメージを与えました。大手自動車メーカーの工場が東北地方に多くあり、ほとんどの工場が壊滅的被災にあり、復旧のメドすら立たず生産休止に追い込まれました。当然、会社の受注も止まり、仕事はほぼ0に。給料6割保証で休業となりました。それがだいたい3ヶ月以上続きました。以前の私なら6割でも毎月給料が貰えて、仕事をしなくてもいい。「超ラッキー」と考えたでしょう。しかし、この頃の私は仕事にやりがいを感じてましたから、毎日毎日悶々と過ごしていました。イライラが積もり、挙げ句には母に八つ当たりをしてしまいました。その光景を見てた父から、「お前の気持ちはよく分かる。仕事がないのはお前のせいでもないし、お母さんのせいでもない。ただ、俺はお前が一生懸命働くようになった事はお父さんは嬉しい。この状態はいつまでも続くわけではない。それまでいい休暇だと思ってゆっくり過ごせ。ただし、お母さんには後で謝っておけ。」と優しく窘められました。私もその言葉に思わず涙が出てきました。母も優しく許してくれました。それから、思っていたよりも早く復旧をし、私も無事に仕事を再開させる事ができました。
<休業中にしてた事>
この頃はまだ消防との交友を持っていなかったため、ドライブをしたり、行き付けのコンビニに行ったりとこれと言う目標を見つけられずに日々を過ごしていました。ある日、自分の部屋の様子を見て愕然となりました。今でこそ、整理整頓が当たり前。今暮らしているグループホームに来客が来た時のモデルルームになるぐらいの綺麗な状態を保ってますが、当時の私の部屋は物は散乱して、下手すればゴミ屋敷かと思えるぐらいヒドイ部屋でした。父からも「少しは部屋を片付けろ!」とよく注意されてました。私は思いました。(こんな部屋に女の子来てくれるかな・・・)と。そして(どうせやる事ないなら、この部屋を女の子が突然来ても快適に過ごせるに部屋にしよう)と考え、即行動。まずした事は、要るものと要らないものの仕分け。「もったいない・いつかは使う精神」を振り払い、思いきった仕分けを実施しました。売れるものはリサイクルショップに行き、お金に変えてました。店員さんとも仲良くなり行く度に荷物を運び入れるのを手伝って貰いました。大量にあったビデオテープも8割ぐらい処分しました。6割程度処分し終え、仕分けはとりあえず一区切りを付け、次に汚れた箇所を徹底的に清掃したり、近所の若い衆に家具などの移動を手伝って貰いました。部屋を占領してた大きな洋服ダンスは撤去し、地震対策で私の身長より高いものは全て撤去する徹底ぶり。今考えるとよくあんな汚い部屋に居たもんだと時々思い出してゾッとしてます。その頃には父も私の本気モードに援助をしてくれるようになります。父から「畳を処分して、コンパネ打ち付けてその上にカーペットを敷いたらどうだ?お父さんの友達に大工に頼んでやる」との提案。私は早速ホームセンターに行き茶色い木目調のビニールマット(畳3畳分の大きさ)1枚と4色のタイルカーペットを必要な分だけ購入し敷きました。約半年にかけてリフォームを成し遂げました。遊びに来た友人が思わずびっくりして後退りしたぐらいです(笑)。このリフォームがきっかけで私は「整理整頓」に目覚めました。
[追伸]
私は現在、月に1・2回帰ってクリエイター活動をしています。ベッド付近は多少荒れてはいますが整理整頓された綺麗な状態をほぼキープしてます。そろそろベッド付近の片付けも視野に入れてます。
<終わりに>
人的・物的被害はもちろんですが、経済的被害が大きかったこの東日本大震災阪神淡路大震災(第3号でも語りました)同様、短期間での復興は「日本人の底力」を世界中に改めて知らしました。一方で、個人1人1人の復興はまだまだ出来てないのも事実です(詳細は第3号を参照してください)。
1人1人が元の生活に戻れてこそ「真の復興」です。「防災意識の向上」が今後の大きな課題でしょう。そんな中先日、福島を中心に発生した震度6強の地震はさほど大きな被害も出ず、何より「死者が出なかった」事は10年前の教訓があったからだと思います。行政や個人レベルの防災意識が向上した成果です。と同時に向上の上には多くのかけがえのない命が犠牲になってる事を忘れてはいけません。尚、今号は哀悼の意を表して絵文字を自粛させて頂きました。今号もご愛読頂きありがとうございました。では、また「次号」でお会いしましょう。

藤龍市消防本部初代消防長
消防司令長
消防クリエイター
伊藤龍一

藤龍消防便り第9号

藤龍消防便り🚒第9号🚑2021年3月7日👨‍🚒

今日3月7日は「消防記念日」です。今号は消防記念日について語ります☺️
<消防記念日とは>
昭和23(1948)年3月7日に消防組織法が施行されたのを記念して、同法施行2周年を迎えた昭和25(1950)年に設定されたものです。
国家消防庁長官(現総務省消防庁長官)は、昭和25年2月9日、各都道府県知事に対して、消防記念日の設定に関する文書を送付しました。
その中で「消防が完全に市町村の責任において運営、管理されることを規定した、他に類例を見ない程地方自治に徹した消防組織法の精神を、消防関係職員及び住民に会得せしめて、各々の責任と権利と義務において、その市町村を水火災その他の災害から保護しようとする声が起こった」と、当時の消防に寄せられた期待の大きさを述べ、消防記念日を定めることによって、3月7日を意義あらしめたいとしています。(引用)
それまで「消防」は「警察組織」の一部だったのです。この事は意外と知られないと思います。

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<豆知識>
消防本部によってはキャップやワッペンに「1948」と表記してるところもあります。これは「消防組織法」が施行された年の西暦なのです。ちなみに私が今生活している岐阜市の消防本部の職員用のキャップ🧢にこの「1948」が表記されます。機会があれば皆さんの住んでる市町村の消防本部で「1948」を探してみるのも結構楽しいかもしれません☺️
<消防組織とは>
東京消防庁(東京都が運営・管理)を除く消防組織は市町村が運営・管理をしてます。そのため、大小様々な消防本部(消防局)が日本中に存在してます。我が藤龍市消防本部は人口がおよそ1万7000人の小さな市の小さな消防本部です。それでも☝️災害弱者が安全で安心して暮らせる「まちづくり」をコンセプトにしている「防災福祉都市」なのです。このように、各地域の特性を活かせるのが市町村単位のみどころだと私は思ってます☺️
<消防相互応援協定>
市町村は、消防に関し必要に応じて相互に応援すべき努力義務があるため(消防組織法第39条第1項)、消防の相互応援に関して協定を締結するなどして、大規模災害や特殊災害などに適切に対応できるようにしている。
現在、全ての都道府県において、各都道府県下の全市町村及び消防の一部事務組合等が参加した消防相互応援協定(常備化市町村のみを対象とした協定を含む。)が締結されている。(引用)
1本部では対応できない災害が発生すると近隣の本部が助けにきてくれるのが「消防相互応援協定」です🚒🚒🚒🚑🚑🚑警察のように変な「縄張り」意識がなく「困ってる時はお互い様」これぞ「人のために尽くす」という「消防」のあるべき姿です☺️

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<おわりに>
消防は昼夜問わず助けを求めてる人々のところに駆けつけ活動をしています。改めて消防救急活動にご理解とご協力のほどをよろしくお願いいたします🙇⤵️今号も最後までご愛読頂きありがとうございました。「いいね👍」やコメントを毎回頂いており、大変励みになります。。貴重なアドバイスも頂いております。「シェア」のほうもよろしくお願いします。それではまた「次号」で。バイバイ👋

藤龍市消防本部初代消防長
消防クリエイター
伊藤龍一

私の目標と夢その3

「超人消防士」

中部ろうさい病院では午前中リハビリをする以外は部屋(個室)で本を読んだり、ユーチューブを観たりして過ごしてました。テレビ📺はテレビカード💳節約のため本当に観たい番組しか観てませんでした。たまに売店に連れてってもらい、夜食べるおやつ🥐🍫やお気に入りの「たい焼きアイス🍨」を買ったり、仲のいい看護助手さんに時間が空いたときに車イス♿を押してもらい院内を散歩してました。


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眠くなれば看護師さんに支えてもらいベッドに移り昼寝😪もしてました。オペ後は極力車イス♿に座って時間を過ごすようにしてました。これも「リハビリ」と考えてました。看護師さんたちにも、「伊藤さんはすごく前向きだね☺️さすが消防士さん♥️」とちやほやされてました😳オペ後初めての食事🍱も看護師さんに少しベッドを起こしてもらい食べさせてもらい、ほぼ完食。オペから2・3日後には理学療法士の先生が部屋に様子を見に来て、「どう❓立てる❓」との問いに「やってみます」と答えたくさんの管が付いたまま支えてもらい立ち上がり、「じゃあ、その場で足踏みはどうかな❓」との問いにも「出来ると思います」と答え足踏みをしました。これには、横で見てた先生や看護師さんたちも大変驚いてました😲😲😲あとで看護師さんに「伊藤さんは超人だね☺️健常者でもなかなかあそこまで出来ないんだよ☺️」と言われ「だって、俺は消防士だから👨‍🚒」と答え、看護師さんも「そうだったね☺️」と微笑んでました。という具合で所々で「超人」ぶりを発揮してました。

「苦悩の積み重ね」

そんな私がいつも考えていた事は、尊敬して目標としている地元の消防本部の当直隊長に1日でも早く社会復帰して会いに行く事と、完成直後に闘病生活に入ったため放置せざるを得なくなった「龍神前分署」の事。より高いクオリティを追求するため、改装のイメージを膨らませていました。退院したら自宅に帰ってクリエイター活動を再開させる。この思いで1日1日を過ごしてました。「中部ろうさい病院」➡️「名古屋市総合リハビリテーションセンター附属病院」➡️「太郎と花子」➡️「ほたるの杜」と移るたびに今度こそは😤今度こそは😤と歯を食い縛り堪えてきました。時々悶々となり爆発🔥😭💣しそうにもなりました。一度、太郎と花子にいるときに、父に月に数回家に帰ってクリエイター活動をしたいと頼みましたが「ダメだ💢😠💢もし家の中で転んで打ち所が悪かった、せっかく回復してるのに全て水の泡だぞ💢😠💢」と強く咎(とが)められました。横で聞いていた相談員さんもうなづいてましたが、あとでメール✉️で「お父さんも今は無理と言ってるだけでもっと回復すればきっと許してくれるはず。私もなんとか説得してみます。焦らずに行きましょう」と言われました。私は気持ちを切り替え、さらに増して自主トレと訪問リハビリに取り組みます。その結果、太郎と花子を卒業し、グループホームでの自立計画最終章をスタートさせます。

「念願の再会へ」

ほたるの杜に来てからの私は「50歳までの自立」を目標にいろんな事に挑戦しています。そのひとつが「資格取得」☝️手始めに「甲種防火管理者」の資格取得に取り組みました。「甲種防火管理者」になるためには消防本部が実施する2日間の講習を受けなくてはなりません。交友させて頂いてる元消防長に私のように障がいがあっても受けれるかを聞いて👂みました。元消防長は「受ける事は可能ですが、各消防本部の判断ですので一度本部で直接訪ねてください」と言われました。グループホームの職員、生活支援の職員、相談員さんに相談をし、生活支援の職員同行で地元の「各務原市消防本部」を訪問する事になりました。
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期待と不安の中、本部庁舎内に入り、たまたま通り掛かった消防職員を生活支援の職員が呼び止めてくれ、「T司令を呼んでください」と私から伝えました。この「T司令」こそ私が尊敬して目標としている当直隊長なのです。当時は現場を離れて内勤になってたため、平日ならいる事は分かってました。しばらく待ってるとT司令が現れ「念願の再会」を果たしました。「よく来たね。元気そうじゃん☺️」と昔と変わらない笑顔で話し掛けてくれました。ここに来た理由を伝えると、「それじゃあ、2階へどうぞ☺️」とエレベーターで2階に。「ここに座って待ってて。担当者を連れてくる」と言い、私と生活支援の職員が待ってると担当者を連れてT司令が現れました。四者面談中、私の思いを担当者とT司令は真剣に聞いてくれました。「事情はよく分かりました。この場では判断出来ないため、上と相談をし、後日ご連絡致します」との事。そして、私のスマホ📱でT司令とのツーショット撮影を終え、玄関までお見送りして頂きました。「また会いに来ます☺️」とがっちり握手を交わし「また会おう☺️」と笑顔で庁舎を出ました。後日、担当者から「受講可能」と連絡がありました。日程の都合や付き添いの調整の結果、生活支援の職員と一緒に受けるという形になり、ほたるの杜がある岐阜市の消防本部で講習を受けました。


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土日の休日返上で朝から夕方までみっちり講義を聞き👂、消火栓の使い方の講義では一番前に陣取り真剣に聞き👂、最後の効果測定📝もなんとか合格ラインに達し、「甲種防火管理者」の資格が頂けました。もちろん生活支援の職員も合格(途中うすらうすら居眠り😪をしてたのにも関わらず😁私に度々起こされてそれでもポイントは押さえてるのはさすが👍)


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私にとって自動車運転免許以外、初の資格になりました。その後も私は、引率者付きを条件に瑞穂消防署で普通救命講習。


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(講習終了後に車両見学もさせて頂きました。)
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さらに岐阜南消防署で上級救命講習を立て続けに受けました。
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上級救命講習は朝から夕方までほとんど実技講習、他の受講者の方々と混じりヘトヘトになりながら気力で乗り切り(職員の方々、周りの受講者の方々、付き添いのヘルパーさんのフォローもあり)、筆記試験📝実技試験(基本動作が出来てると認められ)ともに合格し、上級救命技能認定者の資格も頂けました。昼休みには職員の方の案内で私が一番好きな車種である「タンク車」を見学。私の豊富な知識と鋭い質問に案内をして頂いた職員の方もたじたじになりながら一生懸命対応して頂き「感謝」です。


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このように「岐阜市消防本部」のご理解とご協力もあり、私は現在「甲種防火管理者」「普通救命技能認定者」「上級救命技能認定者」の有資格者です。私の必死な思いが徐々に周りに伝わり、何かが動き始めてる⚙️自信が確信になる日が近づいてます。

 

つづく

私の目標と夢その2

「空白の4年間・苦悩の闘病生活」

私の身体的機能低下はさらに悪化の一途を辿っていきます😔ある朝、目覚めるとともに今までに経験のしたことのない激痛が腰を襲います。ベッドから転げ落ち、悲痛の叫びをあげる事しか出来ない・・・💥異変に気付いた父が119番通報☎️間もなくして救急車が到着🚑市内の総合病院🏥へと搬送されました。その結果、私はとうとう歩く事は愚か立てなくなり、車イス生活♿を余儀なくされました。会社に辞表を提出した直後だったため「仕事」も「自由」も全て失います😢「苦痛」「不安」「恐怖」は計り知れないもの・・・。「このまま私の人生終わっちゃうんだろうか・・・」「こんなに痛くて苦しいならお母さんのいる天国に行かせて😢」とも考えるようになります。そんな私に一筋の光✨が差します。私の目の前にまさしく「ドクターX」が現れるのです。当時「中部ろうさい病院」の整形外科医だったI先生は私の目をしっかり見て「このままだと一生寝たきりになる。今ならまだ間に合う。すぐにオペしましょう。失敗はありません。」と言い切ったのです。
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今までの苦労が嘘のようにトントン拍子で入院とオペが決まり、私の人生をI先生に託し、2016年11月22日、首で5時間、そして2016年12月7日、腰で3時間、2回のオペを受けました。
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(写真はオペ直前の私)

術後、激しい痛みと極限の喉の渇き、2回目の腰の術後は激しい吐き気との闘いを乗り切った私は中部ろうさい病院で3ヶ月入院生活を送りました。その後、より専門的なリハビリを受けるため「名古屋市総合リハビリテーションセンター附属病院」に転院しました。(元々はこの病院🏥の紹介で中部ろうさい病院でオペを受けたのです。)
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ここで私は自宅での生活に戻るため、2ヶ月間死に物狂いでリハビリをしました。しかし、医師の診断は残酷なものでした。現段階では自宅での生活は難しく介護施設に移る事になります。私の希望で入院する前からショートステイしてた愛知県丹羽郡にある「太郎と花子」に戻る事となります。f:id:tohryufd:20210225132224j:image
お城のような外観は元より中も高級ホテルを思わすようなステキな空間。ここでの生活は快適そのものでした。それこそ1日中トレーニングマシーンで自主トレをしてましたし、週3回、OT(作業療法)、PT(理学療法)の訪問リハビリを受けた結果、再び立ち上がり歩けるようになり、1人で歩き施設の近くのコンビニ🏪まで買い物が出来るまで回復。長い期間リハビリをして杖を使ってなら歩けるようになると言われてた私。約1年で自立歩行が出来るようになった事はまさしく「奇跡」でした。この施設ではもう1つ奇跡が起こりました。いくつかの偶然が重なった事により「運命的な素晴らしい出逢い」が訪れたのです。この話はまたの機会にします😳私には「自立」と言う大きな目標があるため、介護施設を卒業しなくてはなりません。快適の環境に別れを告げ、新天地、岐阜県庁南のグループホーム「ほたるの杜」にやって来ました。

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ほたるの杜での生活は多少不便さは感じられるものの「私の自立」ため色々サポートを受けているのですが・・・。中部ろうさい病院の入院からほたるの杜に移ってから約4年も経つのに一向に自宅に一時帰宅さえ出来ない日々。モヤモヤ感をずっと抱え続けてました。そしてここに移ってから2年の月日が流れ、ようやく「空白の4年間」にピリオドが打たれるのです。

つづく